ふと、思ったのだが。
「男女差別するな」とか、「職業に貴賤はない」とか、「人種差別するな」とか、
いろいろな差別をなくそう、という運動がある。
もちろん、その運動を否定するわけでもないし、むしろ応援したい側ではあるのだが。
ちょっと、考えたんですよ。「差別のない世界」ってやつを。
もし、
男女差別も人種差別もまったくなく、何もかもがフラットになった状態で、
みんながみんな、ヨーイ、ドンで、ゼロから何かを始めたとしたら。
それで、差が生まれたら。
その結果については、何も問題なく受け入れられるのかなぁ。
何も差別のない世界で、ただ、差を生むのは、その人個人の能力だけでしかなかったら、
みんなは、その個々の能力の差を、なんら妬むことなく、受け入れられるのかなぁ。
それで、明確な順位がつけられたとき、その順位を受け入れられるのかなぁ。
「順位付けそのものがいけない」
となったら、順位付けをなくし、すべての人をフラットにしてしまったら、「役割」というモノはどうなるんだろう。
どんなに負担がかかる役割でも、簡単な役割でも、報酬は一緒? ・・・でないと貧富の格差が生まれちゃう。
役割で報酬を変えたら、その役割を行えるかどうかの能力差が、報酬の差になっちゃう。
そうであれば、その報酬の差について、みんな納得するんだろうか?
どんな役割でも報酬が一緒なら、責任の重さも変わらない? 責任は役割の内容によるから、報酬とは関係ない。
そうなると、みんな、楽なことばかりするようにならないか? 責任ある役割は誰もしなくなるんじゃないか?
そこまで、みんな、滅私奉公することが可能なの? そこまで「性善説」によっていいの?
報酬と責任が不釣り合いなら、「やりたがる役割」と「やりたがらない役割」が生まれない?
それでは、「役割」に差が生まれてしまう。それは、「役割の差別」ではないの?
ある役割に報酬を与えること自体が、報酬の格差や役割の重みに関する差を生みだしてはしまわない?
もちろん、この前提として「みんなゼロからスタート」というモノがあるわけだけれど。
いろいろな差別をなくしていくと、個体能力の差による、覆しようのない「絶対的な差」を見せつけられるんじゃないか?
その「絶対的な差」について、みんな、羨むことなく、妬むことなく、「わたしはわたし、あなたはあなた。」という風に受け入れられるんだろうか。
そういった個々の差までも、「差別だからなくそう」という話になると・・・なんか、おかしな話だと思いませんか?
「優れているモノは、より多く社会に奉仕するべき。それをノブレス・オブリージュと言う」
っていう考え方もあるけど、それは、優れたモノが自主的に思うべき事であって、劣っている側が、優れている側に要求するべきことじゃない。
そもそも、優れている/劣っているにかかわらず、「ノブレス・オブリージュ」は、その考えを他者に要求しちゃいけない。
それをできない側が、それをできる側に「要求」してはいけないのだ。それは差別だ。
「おれはできないんだから、できるお前が代わって、おれに奉仕しろ」
なんて、言ってはいけないんだ。
その非対称は発言は、差別を助長する言葉なのだから。
なんか、そんなことを、ふと、思った。
もちろん、今、社会問題になっている「差別」は、なくした方がいいと思うけど。
なくしていく努力は必要だろうけど。