まぁ、感覚の違いなんだろうけど。
たとえとしては不適切かもしれないけど。
「『いじめ』の構造には、『いじめられる』側にも原因がある」
と、あたしは思っているんですよ。
こういうことをいうと、ものすごく非難されるんだけどさ。
どうも、このときに使われている、
「原因」
という言葉の意味合いが、人とは違っているみたいで。
どうも、怒る人は、「原因」ってのは、その結果に対して責任がある、と思っているみたいで。
つまり、
「『いじめ』の構造には、『いじめられる』側にも原因があるから、『いじめられる』側にも責任がある」
という風にとらえているっぽい。
・・・誰も、「責任がある」なんて言ってないんだけどね。
ただ、単純に、「いじめる」側が、「いじめられる」側の、何かをきっかけにして、いじめている場合もあるでしょ、と。
その「きっかけ」は、「いじめる」側が検知した、「いじめられる」側の「何か」で、その「何か」が原因でしょ、と。
でも、その「何か」を出したことによって「いじめられる」いわれはないし、それを「いじめられる」責任にはできないでしょ、と。
「いじめられる」という「結果」を分析する場合、きちんと、その「原因」を見定めて、
「これこれこう言う原因をもとにいじめるのは、いじめる側の責任であって、いじめる側に問題がある」
という説明をしなければいけなくて。
頭ごなしに、「いじめはいけない」なんていっても、理解できない人には、理解できないだろうし。
・・・あれ、話がずれてきた。
まぁ、何が言いたいかっていうと、昨日のエントリの
■[IT][社会]祭られる側にも、祭る側にも、それなりの原因と理由があります。それが正しい事だなんて夢にも思わないけど。
の言いたい事が誤解されたら嫌だなぁ、と。
「祭り」ってのは、「祭られる」側に問題がある場合もあれば、「祭る」側に問題がある場合もある。
それは、「祭られている」内容を見なければわからない話で。
あたしは、基本的に「祭られる側に原因がある」と思ってる。
「祭られる」何かに反応して、祭るもんだと思ってるから。
でも、「DQNだから祭っていい」ってことにもならないし、「祭られる側が悪い」ってことにもならない。
「祭りが起きた」責任は、また、別のところで考えなきゃいけないし、
祭られた事によって何らかの被害が発生した場合は、それもまた、別の事としてわけて考える必要があるだろうと。
なんでもかんでも「祭り」を、それの責任にする事はできないでしょう、と。
ってか、「祭り」って、ネット上だけの問題じゃなくて、ネットは単なる手段かと思うわけですよ。
これまでも、ある雑誌の記事がきっかけになってマスコミに取り上げられて、裁判になったりだとか、
民衆の意思が(っていうと大げさだけど)きっかけになって、政治が動いたりだとか。
似たようなことは起きているわけだし。
まぁ、祭りたい奴は、自分の発言に責任を持って祭りなさい、ってこった。
一応、goo辞書より。
「原因」に「責任」が伴うなんて、そんな意味はどこにもない。
げんいん 0 【原因】
(名)スル
(1)ある物事や状態を引き起こしたもとになった事・出来事。
⇔結果
「墜落事故の―を調査する」「此処へ引越したのも、半(なかば)は僕の事に―して居る様に誤解して居たんだ/魔風恋風(天外)」
(2)〔哲〕 ある事物を成立させるもととなった物事・理由。アリストテレスでは形相因・質料因・作用因・目的因の四つに区別するが、狭義には、二つの事象が必然的な関係のもとに生起する時、時間的に先なるものをいい、後なるものを結果という。
むしろ、「責任」が伴うのは、その「結果」を引き起こした「行動」「動作」と、その主体にだろう。